「奪いあえば足りないが、分かちあえば余る」

九六歳の義父が入所している施設から電話あり。「面会にいらっしゃる際にはちょっとした食べ物を持ってきてください」とのこと。
え?どういうこと?


詳しく聞くと、つくば市内はライフラインは復旧してきて徐々に通常モードに戻りつつある。農産物は豊富な土地柄なので、主食や生鮮食品などは一応大丈夫なのだけど、ゼリーやジュース・乳製品・お菓子などの日持ちのする加工食品が不足していて入居者のおやつや健康補助食品が不足しているのだとか。一連の買い占め騒動の影響らしい。紙おむつなどの衛生用品も徐々に不足してきているという。さらにいうと、深刻なガソリン不足で物資調達する職員たちの足も奪われつつあり、勤務態勢もギリギリになっているとか。慌てて家にあるお菓子類やゼリー類をかき集めて持って行った。職員さんに「ほんとにありがとうございます」とやたら恐縮されたけど、いやいやいやいや、ホントにお疲れさまですありがとうございます。


東京や横浜の友人に電話をすると、首都圏のここ数日のスーパーの買い占め騒動はひどいらしい。震災にはまったく関係のない西日本にまで買い占めパニックは広がっているとか。ちょ、みんなほんと落ち着いてよ〜。この大災害で、私の人生で未だ経験したことのないくらい国中がひとつになって励まし合い、助け合おうというモードになっているのに、これは悲しいよ......。


暗い気持ちになりながら、少し前に読んだこんなエッセイを思い出した。

――(前略)――
 玉子かけ御飯については、太平洋戦争中、なつかしいおもいでがある。
耐乏生活が当たり前の時代だったから、朝食で、姉と妹と私の三人きょうだいに与えられる生玉子はわずか一個である。三人で一個である。
 母が、三人の御飯茶碗に、平等に一個の玉子を分配しようとするのだが、この玉子というものはヌルヌルしていて、必ず、かたよるくせがある。
「お姉ちゃんの方が多いよ」
私がいうと、妹が、すかさず、
「お兄ちゃんの方が多い」
と不満を表明する。母は根気よく、子供の意見をききながら、あくまで同じ量をめざして奮闘するという、まことに辛い時代であった。
 いまの玉子一個の値段からは、とても考えられないことだが、その分配騒動が、毎日のように起きるのだからたまらない。さすが、幼い私たちきょうだいでも、無い知恵をしぼった。
「そうだ、玉子はニワトリが生むんだ、だからニワトリを飼えばいい」
ひとすじの光がさしこんだようだった。きょうだい三人は、とぼしい小遣いを出し合って、三羽のニワトリを手に入れ、裏庭に金網の囲いを作って飼育を始めたのだ。
<生んでくれ!生んでくれ!>
みごと私たちの願いは叶った。三羽のニワトリは次々と玉子を生むようになったのである。そして、朝食には晴れて一個ずつの玉子を喧嘩せずに食べられるようになった。はじめて自分のニワトリが生んだ玉子を、わずかな御飯にかけて食べたときのおいしさは、生涯忘れないだろう。
――(中略)――
 あの時代に、玉子とニワトリから学んだことは大きかった。きれいごとには「奪いあえば足りないが、分かちあえば余る」という。もちろん、その美意識は大切だが、根本的には、「無」から「わかち合うもの」は生れない。足りないものは足りないのだ。
 この体験は、いかに食糧生産が大切かということを教えてくれた。いつの世にも「生産」は必要なのだ。それにまた「知恵」も必要である。幼い時期、母がたった一個の玉子を三人に分け与えていた姿は悲しいけれど、きょうだいが知恵をしぼり、ニワトリの飼育に気がついたのも、あっぱれであった。
 ちなみに、私のエトは「酉」である。

山川静夫氏「玉子とニワトリ」 昭和。あの日あの味 (新潮文庫)より

そうそう、奪い合えば足りなくなるに決まっている。いま、スーパーで目の色を変えて買い込んでいる人たちは、「いま」ほんとうに足りないのか、よくよくよーく考えようよ! つい先週まで「メタボ」とか「ダイエット」とか「シンプルライフ」とか言ってた私たちでしょ? ぜんぜん有り余っているはずでしょ? いまは分かち合って、それから、もうすこし落ち着いたら、知恵を絞って、みんなで生み出していかないと! 


被災しても理性を失わず、略奪も起こさない日本の規律正しさを世界中が感嘆の目で見ているといいます。誇りに思いましょう。誇りを持ちましょう。分かち合いましょう。ウエシマ作戦、なう!