顔の見えるケンカ

風邪でぼんやりした頭でなんとなく見ていた日曜日のサンデージャポンで、例の寝屋川の教職員殺傷事件を取り上げていて、悪評高い『ゲーム能の恐怖』を書いた学者の、「『ゲーム能』や『ケータイメール能』は、キレやすく自制の効かない人間になる」という相変わらずのトンデモコメントが紹介されていた。


私は、「ゲーム能」だの「ケータイメール能」だの「フィギュア萌え族」だの、わかりやすい病気や人種を乱造して、「オトナの理解の範疇を越えたメディア」に責任のすべてをなすりつけるような言説はアホかと思っているし、こういう「識者」っつーのは、自分の理解の範疇を越えた出来事をみんな「エイリアン」の仕業にしたいのよね〜、そこがあーた達のおつむの限界なのよね〜と苦笑を禁じ得ない。番組にこの「ゲーム脳」学者が出てきたときも、出たよ〜、こんなトンデモな学者のコメントなんか垂れ流すなよ〜、純情なパパリン・ママリンが真に受けちゃうじゃないか〜とテレビの前でヤジを飛ばしていた。


ダンカンや飯島愛など、他の出演者たちも、この「ゲーム脳」コメントには懐疑的で、「だって、ゲームやっている子どもが全部こうなるワケじゃないでしょ」「ゲームばかり悪者にしたってしょうがないでしょ」「なんだかねえ」という意見が大半だったのだけど、中で1人だけ、いや! ゲームはアカンって! ぜったい人間おかしくなるって! とがんばっていたのが、久しぶりにこの番組に出演していた井筒監督だった。


「ゲームが子どもに与える影響という話をしたら必ず『ゲームだけが悪いんじゃない』『ゲームをやったからといってすべての子どもが人を殺すワケじゃない』って言う奴おるけどね、オレはそれは違うと思うよ。それは問題のすり替えや。ゲームは悪いって! 絶対、子どもをおかしくするって。あんな、朝から晩までテレビ画面の中で武器持って、次から次へと人を殺しまくるゲームばっかりやってたら子どもはどうなる? 実際に友達と殴り合ったこともないのに、テレビ画面の中では毎日大量虐殺やってんねんで。ゲーム脳やらケータイメール脳やら知らんけどな、オレは、ゲームは絶対に悪いと思うわ。こんなこと言って、ゲーム会社からものすごいクレーム来るかわからんけどな、でも、オレはそう思うよ。あんな殺し合をい子どもにさせたらアカン」


と熱く語っていた。司会の爆笑問題も、彼のオーバーヒートっぷりにかなりとまどっている様子だった。あの調子だと、ゲーム会社からのクレームが実際に入ったかもしれない。
 
 
彼のその熱い口調を聞いていると、先日見た「パッチギ!」のすさまじいまでの乱闘シーンの数々がフラッシュバックしてきた。ああ、そうか、井筒監督は、こういう「リアルな暴力」を描くことによって、テレビゲームに代表される「バーチャルな暴力」を痛烈に拒絶したかったんだ、と思い当たった。 


固く握りしめた拳が額に当たった時の、バコっという鈍い音、吹き出す鮮血、服の破れる音、怒声、悲鳴......彼は、そういう生々しい暴力をこれでもかこれでもかと描くことによって、「殴れば血が出るんじゃ」「怖いんじゃ、痛いんじゃ」「ほんとのケンカっつーのはこうやるんや!」と、大声で叫びたかったのだろう。


パッチギ!」を見たときには、そのあまりにも激烈なケンカシーンを見て「もういいよ、やめて」と思った私だったが、井筒監督が「いや、ゲームはアカンて!」と強く言い切った背景には、彼には彼なりの「暴力の哲学」みたいなものがあったんだと気づいたのだった。井筒監督の描く暴力シーンは「痛いからやめて!」と思わせたけど、ゲームの中の暴力には「やめて!」と思わないもんな。むしろ、「もっともっと」って感じだもん。


ゲーム脳」やら「メール脳」などというトンデモな言説に与する気はこれっぽちもないけれど、彼が示したこれらのメディアに対する激しい拒否感は、人と人とのつながり方がどんどん不自然に、いびつになっていく事に対する必死の抵抗のように感じられて、ちょっと共感してしまった。


昭和30年代みたいに、子どもはみんな野原でチャンバラごっこして、女の子はままごとして、一家そろって夕食を食べて、片思いの相手には自分で書いた「ラブレター」を渡す、そういう社会にはもう戻れないんだし、いま、そういう牧歌的な情景を懐かしんだり、目指したりするのはまったくナンセンスだと思うけど、それでも、「私たちって、どんどんいびつに、おかしな方向に向かっているんだなあ」という自覚は、やはり忘れてはならないと思った。