「記念日」の作用

今日は終戦記念日。今年で60回目だという。
ここ数日、テレビも新聞も雑誌も、戦争関連の特集を組み、60年前のあの戦争を回顧し、考えましょうモードになっている。私も、いくつかの番組を見、本を読み、新聞記事に目を通した。


8月15日だから、60回目だから、なにか「総論」めいたことを言って、あの戦争を位置づけなければならない。「もう二度と戦争を繰り返さないために」、「この平和を維持していくためには」、「過去の尊い犠牲のもとにある現在の繁栄に感謝しなければ」、などなど、自分なりの「決意」みたいなものを言わなければならないような、そんな気風を感じる。今年は、とくにその気風が強い。


60回目、8月15日。このキリのいい日に、しかつめらしくナニゴトかを言えば、それで「戦争」や「平和」や「国家」について、考えたつもりになれる。


しかし、ターニングポイントはあくまでもカレンダー上の話である。過去も現在も未来も、とぎれることなく続いている。わかりやすく分岐点をつけるのは、すべて「コト」が起こった後である。すべてが昨日から続く今日、今日から続く明日。これから何年先も永遠に「戦後」は続くし、ある意味、今はもうすでにあらたな「戦前」であるし、イラクに「派兵」している現在は、まぎれもない「戦中」でもある。


記念日は、過去の出来事をを思い出させる大切な日でもあるけど、逆に、その日さえ乗り切ってしまえば、もう考えるのはおしまいだよ、もういいよ、と、私たちの気持ちをリセットさせる奇妙な作用もある。


戦争という国家権力の暴走は、そんなにキリよく始まったり、終わったりしないのだ。