京都の教養

京都ではまご兄に一日つきあっていただく。しかし、奈良とか京都などの古い都を散策すると、教養の浅さが露呈してユーツになりますなあ。お寺の由緒とか建築様式とか歴史的挿話とか、なんにもなーんにも知らなくて、「やっぱり京都はいいねえ。和むねえ」「静かだねえ」とか間の抜けた感想しか言えないのが情けない。

連れて行ってもらった山奥の感じのいいお寺(すでに名前も忘れている)でしゃりしゃりと玉砂利をふみしめつつ、「そうだ、ここで一発和歌のひとつでもそらんじたらかっこいいべ? きっとまご兄も私を見直してくれるに違いない。私、文学部だし」と思い、脳内データベースの中の「声に出して読める和歌」を必死で検索するも、出てきたのは「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」だった。法隆寺じゃないし。和歌じゃないし。

そのあと、千利休が秀吉に殺された一因になったといういわれがある大徳寺で、「ははあ、ここで利休が釜ゆでになったのか」と感慨にふけっていたら、「この寺で殺されたわけじゃないから。それから、釜ゆでにされたのは石川五右衛門だからね」とオットに冷たくあしらわれた。( ´・ω・`) ショボーン

写真は情熱のカメラマン・土門拳子と化した私の入魂の一枚である。歴史は学ぶものじゃなくて感じるものなのさ。