パッチギ!

水曜日はバイトはお休み。早起きして、愛車をチャリチャリと漕いで近所のシネコンへ。9時25分のモーニングショーで「パッチギ!」を観てきた。


こないだ偶然聴いたラジオで、井筒監督が「最近の日本映画は体温が低すぎる。オレはむちゃくちゃ高熱でこの映画を撮った」と言っていたが、なるほど納得。そりゃあもう元気のいい映画で、元気がよすぎて、全体の7割くらいが壮絶な乱闘シーンで埋め尽くされている。それはそれは痛そうな映画だった。途中なんども、「いてっ!」「うぎゃ!」「うわー、もうやめれ!」と小さく叫んでしまった。あれ、かなり本気モードのケンカに見えたけど、どの程度加減して撮影したんだろうか。とにかく最初から最後まで、制作者、役者、そして描かれている「あの時代」の、向こう見ずでやみくもな情熱が伝わってくる。


物語のキーワードになるのは「イムジン河」という歌*1

イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由にむらがり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る


北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの


イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る


物語の後半、主人公の男の子が、在日朝鮮人の友人のお通夜で、年老いた在日一世に「帰れ、ここはお前が来る所じゃない。お前ら日本人はなにも知らんやろ? 今知らなかったら、一生知らんやろ? 生駒トンネルは誰が掘った? 国会議事堂の大理石は誰が積んだ?」となじられ、何も言い返せずに唇をかみしめるシーンは、まるで自分が責められているようで苦しくなった。そうだね、ほんとに私はなにも知らない。言い返せない。


それでも、京都の宇治川の橋にたたずみ、人間と人間、民族と民族、国家と国家の間の、越えがたい「河」の深さを突きつけられて、いたたまれずにうわーーっと絶叫してギターを投げ捨てる、あの主人公には、知りたい、分かり合いたい、「河」を越えたいという真摯な情熱があった。今の私に彼の情熱の100分の1でもあるだろうか? 


過去に日本がしたことを、現代に生きる私が、ヘンに贖罪意識をもって謝罪したり反省したりする必要はないと思う。在日の彼らだって、そんなことを望んでいるわけではないだろう。ただ、知ること。知ろうとすることが、日本人として私ができる唯一の責任の取り方だろうと思う。


そんな重たいテーマをはらんではいるものの、映画全体としては涙あり、笑いあり、エロあり、乱闘あり、のにぎにぎしさ。「パッチギ!」*2というそのタイトル通り、なかなか越えられない「河」を、越えようぜ、飛び越えようぜ、突き抜けようぜ、! と、威勢よくときの声を上げていた、あの時代のほとばしる若さと、エネルギーがあふれている。


彼らの青春から40年近く。今の私たちに「河」は越えるれるかな? 越えたいと思っているかな? ほんとうにそうすることができるといいんだけど。


ただ、これは男の子の映画だよね。この映画の中では、女は常に男に庇護される存在で、闘う男をフォローする(だけの)、美しきヒロイン・気高い母である。男の子がめっぽう力強く、生き生きと描かれていたのに対して、女の子の描かれ方はいささか類型的なような気がしないでもない。これは、同じく1960年代後半を描いた村上龍原作の映画「69」でも感じたことなんだけど。あの時代って、なんだかんだ言って「男の時代」だったんだろうか。


映画の中で、主人公に「イムジン河」をはじめとするフォーク魂を伝授する酒屋のあんちゃん(オダギリジョー)役は、アルフィーの坂崎さんをイメージしたものだという役名もズバリ坂崎だったし、実家が酒屋という設定も同じ。元アル中*3としては、うれしいアクセントだった。


モーニングショーで「パッチギ!」を観て、夜はテレビでサッカー北朝鮮戦。そして、私のPCの壁紙はイ・ジョンジェ(これは関係ないか)。いろいろと考えさせられる一日だった。

*1:この歌の背景。http://www.3asian.com/zboard/zboard.php?id=japan&no=28&page_num=20&prev_no=24&&page=1音が出ます

*2:突き破る、乗り越えるという意味を持つハングルで「頭突き」という意味もあるという

*3:アルフィー中毒の意