さよなら、キッチン

さよならキッチン

このマンションに引っ越してくるまで7年間過ごした牛久の家が、現在解体作業の真っ最中である。


JR常磐線牛久駅から車で15分、学区内の小・中学校まで徒歩40分、最寄りのスーパーは賞味期限切れのハチミツが置いてある「ストアースエヒロ」。梅雨の時季になると道路にウシガエル轢死体が貼り付いているのをよく見かけたし、夜、車を運転していると目の前をでっかいタヌキが横切ったこともある。唯一の自慢はギネスにも登録されている世界一の巨大大仏・牛久大仏が近くにあるということくらい。とにかく、辺鄙・不便極まりない場所にあった我が家である。


築30年を経ていたその家は、床・天井・壁、ありとあらゆる所に隙間ができていて、春は埃っぽく、夏は熱く、冬はすきま風で凍えそうに寒く、収納スペースはない、新しい家電を買い足そうにもコンセントが足りない、壁に絵を掛けようとしたら砂壁がぼろぼろ落ちてくるといった具合。「劇的!ビフォー・アフター」に出てくる改造前の古い家屋の映像を見るたびに、牛久の家もこんな感じだったよなあ......とシミジミ思い返すのである。


特に堪えたのがキッチン・バス・トイレなどの水回り設備の古さだった。
家中で一番暗くて狭くて湿気の多いスペースにすべての水回りをまとめて押し込んであるので、家事導線もへったくれもあったもんじゃなく、料理をしている私の背後で風呂上がりの義父が着替える、トイレに行くオットが通る、朝食の準備をしているそばで、誰かが顔を洗う、歯を磨く。冬になると足もとがしんしんと冷えて、つま先の感覚がなくなってくるようだった。十分な作業スペースがないので、型抜きクッキーを作るときは床にビニールマットを敷いて、そこで生地をのばして型抜きしたりしていた。


結婚したら、都心の便利で清潔な街に二人だけの「愛の巣」の新居を構えて、自分なりの好みで選んだ家具や家電をあれこれ買いそろえ、かわいいインテリア雑貨や観葉植物で部屋をコーディネイトして、おしゃれなキッチンで凝った料理を作って、ガーデニングにも精を出して、あこがれのミセスライフをエンジョイするのよ〜〜♪と息巻いていたニイヅマ・とこりの夢は結婚早々もろくも崩れ去り、窮屈で不便な古い家でスタートさせた私の結婚生活だった。


最初は「あれがない、これができない」「買い物が超不便」「寒い」「暑い」「メンテナンスが大変」と不平不満がつきることがなかったが、住めば都とはよく言ったもんで、2年3年と住むうちに、「まあ、こんなもんでしょう」と思うようになり、帰省や旅行で長く留守にした後で帰ってくると「ああ、やっぱり我が家が一番ね」という定番のセリフも出るようになった。買い物には不便だけど、車を運転するようになってからはさほど不自由は感じなくなったし、春には家の前の桜並木の桜が見事で、新緑の頃の田んぼの緑が清々しかった。秋には黄金色に実る稲穂が波打つ光景が見えた。義父が長い時間をかけて丹誠込めて整えた日本庭園は季節ごとに違った表情で家族や来客を楽しませてくれた。


つくばの新築マンションを購入し、住むようになってもう一年が経つ。新しい住まいは商業施設・公共施設がともに徒歩圏内。たいていの用事なら徒歩or自転車で事足りる。居室にはまだ畳の青いにおいがのこり、天井が高く、窓が広く大きく、壁は真っ白。水回りも収納も配電も、何もかもが最新設備。引っ越しに際して家具や家電もほぼ一新した。目に映るのはほとんど私たちの好みで統一された、満足行くモノばかり。豪華ではないけど、楽しく、快適に暮らしている。


解体作業中の牛久の家に久しぶりに入った。新しい住まいに慣れた目から見ると、記憶に残っている姿より、いっそう古びて、みすぼらしく見えた。ほんの1年前までここでふつうに暮らしていたということ自体、なんだか信じられない気持ちだった。


7年間、私が使っていた古いキッチンの写真を撮った。
ここで、毎日毎日料理を作り、お菓子を作り、お皿を洗っていた私。そして、私の前には8年前になくなったオットの母親がこのキッチンに立っていた。オットは生まれて30年、このキッチンで作られた食事で成長してきたのだ。私も、このキッチンで「主婦」になった。


暗くて狭くて寒かったキッチン。あなたにはずいぶんイライラさせられたけど、でも、いままでありがとう。お疲れ様。