読書と下着

好きな作家は? 愛読書は? あなたの本棚を見せて? という質問に答えるときに、一点の曇りも迷いもなく、ええ、ええ、好きな作家は○○で、サイコーに感動したのは○○○っていう本です。私の本棚? どうぞどうぞ見てください。写真とってもOKですよん――と言える人ってどれくらいいるんだろう? よくわかんないけど、けっこういるんだろうなあ。だって、web上には自分の読書記録や読みたい本リストなどを自ら発表している人がすごくたくさんいる。私も、本を買う時や読み終わった本の評価を確認するときにそういう「読書系サイト」を巡回したりする。


けど、自分が他人に対して「いま、こういう本を読んでいて、わたしはこういう傾向の本をよく読む人間なの」と公開することには、少なからぬためらいがあるんだよなあ。ためらいっつーか、照れかな。それは私の読書経験というものが情けないほど低レベルで、「たくさん本を読む人」へのちょっとしたコンプレックスを持っているからかもしれない。


「うわ〜、たくさん本読んでいてすごいなあ。勉強家だなあ」と感心する一方、「でも読んでいる本の割には、書いている文章はちょっとアレよね」と思ったり、「うわ、この程度の作家の作品で感動したりするの? 安いなあ」とちょいと小馬鹿にしたり、自分と似たような読書傾向の人のレビューを読んだりすると「全然わかってないなあ」と思ったりもする。読書をする人、あるいは自分の読書を語りたがる人に対して、なかなか素直になれない部分があるんですよ。要はコンプレックスの裏返し、単なるひがみであります。だから、自分の本棚を公開して、他人にそんな風に意地悪な視線で見られるのはかなわんな〜と思ってしまうんだよね。結局、私の性格が悪いだけなんだけど。


私は中学・高校の頃まではいっぱしの文学少女のつもりでいて、大学では日本文学を専攻したくらい「本が好き」だった。そしてそういう自分に少なからずエリート意識を持っていて、「本を読まない人」=バカ と思っている鼻持ちならないガキだった。入学したての頃は、文学に対する期待や気負いがすごく大きくて、知り合う人知り合う人に
「好きな作家は? 愛読書は?」と誰彼かまわず訊いていた。


ある時、知り合って間もない先輩に
「先輩の一番好きな作家って誰ですか? いままで一番感銘を受けた本は?」
と、いつものように質問したら、その先輩はちょっと眉をしかめて
「私にとって『好きな作家は?』『愛読書は?』って訊かれることは、『あなたの今日の下着は何色ですか?』って訊かれるのと同じくらい不躾に聞こえるわね。よく知りもしない人にいきなりそんなこと聞かれるのは不本意だわ」
とたしなめられて、かなりショックを受けた事があった。


そうか、この人にとっては「本を読む」=「生きること」だったんだ、それくらいこの人の読書体験というのは重厚なことなんだ、と気づかされたのだった。逆に言えば、今まで「好きな作家は○○で〜」「○○○っていう本にえらい感動してね」「○○○読んだ? まだ?」など、いっちょまえに吹聴してきていた自分の「読書」というものが、どうしようもなく浅薄なものに思えてきたのだった。


今にして思うと、好きな作家や愛読書を訊ねることと下着の色を訊くことがイコールだというのはいくらなんでも言い過ぎだろう、会話のとっかかりとして誰でもそれくらいは訊くだろうと思うけど、やはりその時、その先輩とのやりとりから受けた「読書体験とは、とてもとても個人的なもの、内省的なものである。やたらとオープンにするべきものではない」という印象は今でも尾を引いている。あるいはこういう印象も、読書至上主義・ある種の選民思想になのかもしれないけど。


この作家の○○が好き、とてもよかった、という感想を読んだり聞いたりするのは好きだし、そういう感想をwebなどで発表する人を否定する気は毛頭ないけど、私は、見知らぬ他人に対してはどうしてもええカッコしたいと思ってしまう見栄っ張り。本当に大切な人にしか「お気に入りの下着」は見せたくないし(見たくないだろうけど)、見せるときには、きちんと洗濯された、フリルのついた、誰に見せても恥ずかしくないような下着を見せたいと思ってしまう。あるいは、白地に黒々と「根性!」と筆書きされているような、ウケねらいの下着なら、見せてもOKかな〜とかよけいなことを考えてしまう。


ほんとうはゴムの伸びきった、3枚1000円の安売りのパンツが一番履き心地がよくて、手放せなくているのにね。


なんてこと言いながら、私の日記にはちゃんと[読書]というカテゴリーがある。すてきな下着、かわいい下着、履き心地のいい下着に出会ったら、やっぱり見せびらかしたくなっちゃうんだよね。そして、他人の下着も気になるものなのです。好きな人の下着はなおさら気になります。