箱の中の彼女

エプロンの後ろのボタンが取れかけている。まだ大丈夫、まだイケル......と粘っていたけど、とうとう糸一本でようやくつながっているという末期状態になってしまった。うーん、いよいよボタン付け替えなきゃ。お裁縫だよ、いやだなあ......このエプロン廃棄処分にして、新しいの買おうかしら? と真剣に悩んでしまう。


母親に、「あんたは手のひらのまんなかから親指が生えてるんじゃないの?」と言われたことがあるくらい、超弩級のぶきっちょさんのワタクシ。裁縫なんて大大大大大キライである。自分でメンテナンスできるのは、ボタンつけと、せいぜいズボンのゴム入れくらいで、あとは全然ダメ。OLしてた頃は、スカートの裾がほつれてしまったらギリギリまでセロテープで補修して、どうしようもなくなったら、迷わず捨てていたもんな。


やれやれ、と、メガトン級に重い腰を上げて、裁縫箱を取り出し、ふたを開ける。中を見ると、今までのだらけた気持ちが消えて、私は一瞬、神妙な気持ちになってしまうのだ。


我が家の裁縫箱は、8年前に亡くなったオットの母親が使っていたもののお下がりである。私が針と糸を手にするのは、一年に2,3回、それも使うのは針と白い糸と、糸切りばさみだけ。あとは、オットの母親が使っていたそのままの状態が保全されている。


オットの母親は、私たちが結婚するちょっと前に、長年患っていたリウマチの合併症で亡くなった。私の姑に当たるその人とは、結婚前に2,3度お見舞いに行ったきりで、ゆっくり話をする機会はほとんどなかった。オットも義父も亡くなった人の思い出を饒舌に話す方ではないので、私は、この「お義母さん」が、どんな人だったのかほとんど知らないのだけど、年になんどか、この裁縫箱を開けるときだけ、ついに一度も「お義母さん」と呼ぶ機会のなかったその人の息吹を感じることができる。


小さな赤い針刺しには、数本の針が長さ順にキレイに並んで刺さっている。使い込んで使い込んで、ちびっちゃくなっているチャコペン。手ずれた革製の指ぬき。使いさしの半端な長さの糸が、ボール紙を芯にしたものにぐるぐる巻かれている。いろんな大きさの布きれやボタンが小さなビニール袋にまとめて入っている。家族の誰かの洋服が破れたり、ボタンが取れたりしたときに、この中から素材が似ている布地やボタンを探し出して使ったんだろう。裁ちばさみや糸切りばさみは、だいぶ古びてはいるものの、切れ味は抜群で、厳選されたいい道具を使っていたことがわかる。


この裁縫箱の中の、ひとつひとつのものが、家族の衣服に細かく気を配り、マメに手を加え、しまつに暮らしていた「お義母さん」の、つましい性格を表しているようで、できそこないのヨメたる私は、そのたびに恥ずかしい気持ちで一杯になるのだ。


義母は季節の折り目をとても大切にしていた人で、毎月1日と15日には決まって赤飯を炊いたそうである。端午の節句には菖蒲湯、冬至にはカボチャの煮物とゆず湯、七夕、お月見、節分、ひな祭り......そういう年中行事を毎度毎度律儀に執り行っていたという。そういえば、くだんの裁縫箱の中に、筒状のキャンディーの空き容器があって、その中に、先端が曲がったりぽっきり折れた針が何本も入っていた。なんでこんなもの取ってあるんだろう......と不思議だったのだけど、ある時ハッと気がついた。この折れた針、いつかまとめて「針供養」にだすつもりだったんじゃないかしら。


この裁縫箱の持ち主と一緒に暮らしていたら、私はどんなヨメになっていただろう。ヨメと姑はとかくめんどくさい間柄になりがちだ。実際に姑と同居なんてしたら、煙たいことこの上なくて、双方ストレスがたまってロクなことにならなかったかもしれない。


けれど、姑という存在を知らずにのんきにぐうだらヨメをしている私は、この裁縫箱の中に広がる、亡き人の世界を目の当たりにするたびに、この人生の先輩に、いろんな事を教えてもらいたかったなあと、ふと、考える。生きていたら、私の姑になっていたら、彼女は私に何を教えてくれたんだろう。ほんとにあんたはぶきっちょね、と厳しく叱りながらも、日々の生活を丁寧に過ごすこと、つましく暮らすこと、そして家族を慈しむ心をいうものを、時間をかけて教えてくれたかもしれない......そう考えると、「お義母さん」と呼ぶ前に逝ってしまったその人のことが、少し愛おしくなるんである。嫁姑バトルで疲れ切っているお嫁さんには、超お気楽なタワゴトに聞こえるかもしれないけどね。


......って、神妙な心持ちになるのはほんの一瞬。ひとつのボタンを付けるのに30分かかる私。肩も首もがちがちに凝ってしまった。もうもう、裁縫なんてつくづくごめんだ。この次この裁縫箱を開けるのは、来年になるかもしれない。てゆうか、もう一生裁縫箱なんて開けたくない。


こんな私を見て、義母は、草葉の陰からさぞかし歯ぎしりしていることだろう。ごめんね、お義母さん。