揉める葬式

田辺聖子「人生は、だましだまし」ISBN:404131433X より

――(結婚式というものは)この一組の新郎新婦を生むために一族があった、というような昂揚感に一同は包まれ、晴れ晴れと酔う。過去のいささかの紛糾(いざこざ)もみな流されてしまい、睦み合い、心をひとつにして祝福する。
 これが葬式であるとどうか。
 しめやかなうちにも、和やかに、といきたいものであるが、往々にして葬式で荒れることが多いのはなぜであろうか。
「泣き泣きもよいほうをとる形見分け」
 という古川柳があるが、お棺を前にして早くも遺産相続で揉めたというのはよく聞くところである。
(中略)
葬式の席での揉めごとは大なり小なり、避けられぬものらしい。人間の習性は祝福でまとまるより、不平不満、怨恨でばらけるほうにかたむきやすいとみえる。よって私の考えたアフォリズムは 
 結婚式はすべてを水に流させるものであり、葬式は水に流したことをまた、蒸し返させるものである。

この本を読んでいる最中に、例の、二子山親方の葬儀を巡る若貴兄弟の確執を取りざたするワイドショーを見たので、ほんと、田辺聖子の言うとおりだわ......とシミジミ思いを巡らせる私である。


ちょっと前に「人生の経験値」というアンケート(?)が流行ったけど、あれを最初にやったときに「あれ? 『葬式』がないじゃん! ダメじゃん!」と思ったことを思い出す*1


私は、まだまだ若輩者ゆえ、結婚式も葬式もそれほどの数をこなしているわけではない。身内で出した葬式といえば、去年他界した祖母の時だけである。その時つくづく思ったのだけど、葬式という儀式くらい、人間とは? 家族とは? 人生とは? について考えることが多い儀式はない。特に身内で葬式を出すとなると、通夜・葬儀・告別式・初七日・四十九日......と続く儀式に忙殺されながらも、そりゃあもう、「渡る世間は鬼ばかり」を濃縮還元エキスにしてさらに煮詰めて発酵させたような、ドロドロに濃い〜〜〜い人間ドラマをつぶさに目の当たりにする。「人生の経験値」のポイントでいったら、結婚が1点なら、葬式(喪主)というのは5点か6点くらいつけてもいいんじゃないか。それくらい人生経験においては重要なポジションだと思う。


今回、若貴兄弟は、どっちが喪主をやるかで遺体を前にして揉めたとの報道だけど、実の父親を喪った悲しみにくれる最中ですら、日頃の怨恨、不満は「水に流す」ことが出来ないものなのだろうか。ロイヤルファミリー並に、「理想の家族・兄弟」ともてはやされた絶頂期の記憶が新しいだけに、現在のこの一家のほころび具合は、他人事ながら胸が痛くなる。


そういえば、元チェッカーズクロベエの葬儀の時も、同じチェッカーズのメンバー高杢・鶴久とフミヤサイドの確執が表面化して、ゴシップになったこともあったなあ。


「葬式の時くらい仲良くしなさいよ」「イヤなこともあったけど、死者に免じて許してあげようよ」とは、所詮、野次馬のたわごとなのだろう。逝く人が近しければ近しいほど、愛情・憎悪もひとしおである。特に身内ならばなおいっそうのこと。死者を看取るまでの、介護・看病など、家族の疲労がピークに達したときに、ふっと緊張の糸がゆるんでいままで抑えていたネガティブな感情が、一気に噴出し、「今だから言わせてもらいますけどね」になってしまうのだろう。


二子山親方が大関貴乃花だった時代を私は知らないが、親方になってからの、あの柔和な外見からは、すべてを達観したかのような、泰然自若とした鷹揚さ、品の良さが感じられ、とても好感を持っていた。遺影の彼も、まさに「おっとり」といった表情でほほえんでいる。


ワイドショーのコメンテーター達はそろって
若貴兄弟のこの確執、天国の親方はどんな思いで見ているのでしょうか?」と紋切り型に繰り返すけど、親方は案外頓着してないような気がする。あの独特の、ふんわりとした物腰で
「しょうがないなあ。どいつもこいつも。ま、仕方ないさ、古今東西、葬式ってのは揉めるもんだよ。これが人生ってヤツさ......」と、おっとりと笑っているんじゃないかしら?


「時間」。それこそが、すべての感情を水に流すことが唯一の薬だ。
二人の兄弟の師匠であり父親であった彼は、その持ち味だったねばり強さで、すべての確執を洗い流してくれる「時間」の経過を、ただ待っているのだろう。

*1:改訂版では「葬式」「喪主」という項目も追加されたようです