2ちゃんねるとわたくし

最近、ふとしたきっかけで、以下の文章を見つけた。「五体不満足」の乙武君が、2ちゃんについて語ったものだ。



乙武君のblogのアーカイブスより

若くして世に出てしまった僕に強く物が言える人がいないのは、僕にとって大きな不幸だと思っている。僕はそう強い人間ではないから、時折、このまま傲慢な人間になってしまわないだろうかと不安になることがある。そんなとき、僕はパソコンを開き、「お気に入り」のフォルダから「2ちゃんねる」を選び出す。僕を悪く言う人々の書き込みを読む。薬みたいなものかもしれない。それまで持っていた自信や自尊心といったものが一気に崩れ去り、代わりに謙虚な心が入り込む。泣きたくなることもある。でも、それくらいがちょうどいいと思っている。

 彼らの文言は、あまりに心なく、的外れなものが多い。けれども、時に足元を見つめさせてくれるものもある。「あんな文才のないやつが」と書かれれば文章を磨くことに貪欲になれるし、「障害があること以外に何のウリもない」と指摘されればウリを作ろうと必死になれる。

 匿名だからこそ好き勝手に書けるけれど、匿名だからこそ本心が出る。僕をよく思っていない人たちの存在を知り、意見を聞くことで、見たくない自分の姿が見えてくる。そこから目をそらすことの方がよっぽど簡単でラクなことだとはわかっているけれど……。

 名誉毀損をちらつかせながら彼らを黙らせることは、確かにできるのかもしれない。でも、それでは単に彼らの口を閉ざしたに過ぎない。誹謗中傷する人々の気持ちを少しでも変えるよう努力する。それは、僕にとって意味のないことではない。


2003年6月にアップされた文章だ。当時、あちらこちらで話題になったらしいが、寡聞にして私は知らなかった。


遅ればせながらこの文章を読むと、その率直さ、前向きさに驚かされる。文章の端々から誠実で几帳面な人柄がにじみ出てくる。おそらくこれを読んだ乙武ファンは、「優等生で、がんばりやの乙武君」という好感度がますますあがったことだろうと思う。乙武君にはさほど思い入れのない私ですら、「なんて素直なんだろう!」とすっかり感心してしまったくらいだもの。


そして、2ちゃんの住人にとっては、乙武君の誠実な人柄、前向きな姿勢が顕著になればなるほど、イライラするだろうし、なんとか凹ましてやりたいと、やっきになったことだろう。おそらく、乙武スレッド(どこにそんな物があるのかは知らないけど)では、この文章に対する揚げ足取りや、邪推、誹謗中傷でひとしきり盛り上がったに違いない。


結局、言動になんの落ち度がなくても、ルックスが良くても悪くても、性格が良くても悪くても、才能があってもなくても、誰にも迷惑かけていなくても、叩かれるときには叩かれるのである。2ちゃんの住人のメンタリティは「なんか、ムカツク!」だけなのだから。理屈じゃないんである。


日本人なら誰でも知っている有名人・乙武君の話の後で自分を引き合いに出すのは相当気が引けるけれども、こんな無名・非才のヘボ主婦にすぎない私も、2ちゃんの方々にはなんどかお世話になった。さすが日本一の巨大掲示板だけあって、こんな辺鄙なテキストサイトの管理人ですら、拾ってくれて、いじってくれるスレッドが存在するのである。なんでもあるよ、すごいな、2ちゃん。


今まであえて日記には書かなかったけれども、自分が2ちゃんで話題になった時は、もちろんすぐ気がつく。知らんぷり・気にしないフリを決め込んでいるけど、そんなこと出来るわけがない。どんな悪口が書かれているかすごく気になるし、それはもうぐっさりと傷つく。見つけてしまった日には一日中気分が悪い。


書かれている内容は、明らかに文章をきちんと読んでいない事実誤認、邪推、思いこみがほとんどで、乙武君言うところの「あまりに心なく、的外れなもの」ばかりである。だから悪口の内容そのものは、さほど問題にしていない。


言いたいことがあるんなら、直接言えよ! 陰でこそこそみっともない。私のサイトが気にいらないんなら読みに来なきゃいいじゃないか。2ちゃんみたいなところで陰口叩いている奴らなんて、ケツのアナの小さい小心者で、実生活での欲求不満を匿名で悪口書くことで実生活での欲求不満をはらしているカワイソーな人たちだもんね〜。悪口書かれるのも「人気」のうちよ。おーほほほっ!


そうやって、2ちゃんに集っている人々を軽蔑するのが、あそこでいじられた時の正しい態度なのだと思う。まともに取り合って反応したり、落ち込んだりするのは馬鹿げている。住人達を喜ばせるだけだ。そうわかっていても、やはり動揺してしまう。オタオタしてしまう。私だって小心者なのだ。


なによりこたえるのは、私のサイトを読んでいる誰かに、私はとても強く嫌われている、悪意をもたれている、そのことなのだ。


顔を見たことも、言葉を交わしたこともない私のサイトを見て、書いてある文章の行間から私への反感・嫌悪を募らせ、2ちゃんねるに行って、当該スレッドを探し、「と○り」はムカツクだのイタイだの、あれこれ書いている――その見知らぬ誰かの、パソコンに向かっている背中を想像すると、薄ら寒くなってくる。持って行き場のない悪意を喚起させる何かが、私の中に私が書く文章の中に確かに存在するのだ、と思うことがなんだかやりきれない気持ちになる。私は、いつ、そんなに嫌われるようなことしたかしら? 私が書いてることって、そんなに不快か。ムカツクか。そんなつもりは全然ないんだけどなあ......


5年近くwebで文章を書いていると、いろんなことがある。かなり派手なネットバトルを繰り広げたこともあるし、不用意な言葉で不用意な内容を書き散らして、多くの人々の反感を買ったこともある。今まで仲良くしていたネットの友人と、意見の相違が元でぷっつりと交流が途絶えてしまったこともある。ずいぶん赤っ恥もかいたし。イヤなこともずいぶんあった。


もちろん、イヤなことばかりじゃない。その数倍のうれしいことがある。たくさんの友達が出来たし、何か書けばすぐコメントやメールなどで反応が来るのは、とてもうれしい。実生活では、私に興味があって、私の考えていることを積極に聞いてくれる人なんてほとんどいないのに、webでは、数百人の人々が、「とこりがなにを書いているか」を気にして、集まってくる。「面白いですね」と言ってくれる人もいる。そのことは、バイトして、家事をして、テレビ見て、映画観て......とのんべんだらりんと単調な日々を送っている私に刺激を与えてくれるし、ほんのささやかな自信をも与えてくれる。だから今まで続けているのだ。


実生活では淡泊な人間つきあいしかしていない私である。webでの社交関係の方が、ある意味、実生活より「濃い」ものになっている。広大なwebの世界で、私が占める割合なんて、それこそチリアクタの部類なのはわかっている。それでも「面白いです」「楽しみに読んでいます」と持ち上げられれば、たいそうな人気者になったような気がする。気分がいい。


でも、webの世界は、いつも冷徹な現実を確認させる。
悪意や敵意はどこにでも潜んでいて、いつ自分に向けられるかわからない。ということだ。このサイトを読んでいる人の中に、常に私のことを意地悪い目で見ていて、なにかボロを出さないか、へまをしないか、手ぐすね引いて待っている人が、何%かは確実にいる。webでモノを書いていると、否が応でもそのことは意識せざるを得ない。


実生活では、web世界のような、「あからさまな悪意」を目にすることはほとんどない。オトナだしね。表面上はうまく取り繕うよ。多少ムカツク人がいても、家族や友人や会社の給湯室で愚痴る程度でおしまいだ。


でも、手っ取り早く悪意を吐き捨てることが出来る手頃なツールが、webにはごろごろしている。いつでもどこでも、好きなだけ悪態つける。普段なら人格を疑われるような聞き苦しい罵詈雑言も、匿名の世界なら平気。むしろ、悪態や罵詈雑言がきわどければきわどいほど、かえって賞賛されたりするという、妙な現象すら起こる。ほんとうに不毛な、理不尽な世界だ。でも、一度居場所を見つけてしまった悪意は、いつまでもいつまでも生産され続け、増殖し続けるのだ。


お手軽な掃き溜めツールとしての2ちゃん。誰でも使える。私だって、他人のサイトを読んでいて腹を立てることもあるし、「いい気になるなよ、ぺしゃんこにしてやる!」とどす黒い悪意を持つことだってある。ほんの2,3回クリックすれば、かたかたとキーボードを打てば、私もあの不特定多数の悪意の一員になれるのだ。誰でも被害者になれるし、加害者にもなれる。


匿名の悪意・敵意に怯えて、書く内容をセーブしたり思ってもいないことを書いたりするのは全くナンセンスだ。ビビるくらいなら、webでモノを書かなければいい。


ただ、そういう理不尽な、不気味なブラックホールが、自分のすぐ身近にあるということ、自分の心の中にもあるということを、常に頭の片隅に置いておくこと。それは、あまり意味のあることではないかもしれないけれど、必要なことだと思う。