ふたりでおにぎり

実家の父が農業を始めました。


去年、30年近く続けていた地方議員の職を辞してからは、「燃え尽き症候群」とでも言うのでしょうか、ずいぶん元気がなくなってしまって、家族とほとんど話しもせず、昼近くまで寝室から出てこず、午後になってからもっそり起きてきて、日がな一日ぼーっとテレビを眺めているような状態。大好きだったお酒もあまり飲まなくなって、食も細くなり、新聞にもニュースにも興味を示さない。あまりにも無気力になった父の様子に、これはいわゆる「高齢期うつ病」なんじゃないかと、周囲はかなり真剣に心配していたところに、農業を営んでいた父の友人が「リハビリだと思ってやってみるといいさー」と余っていた農地を格安で貸してくれたのでした。


「お父さん、畑を始めるって言ってるのよ」
と母から電話があったとき、
「うちのお父さんに畑仕事なんてできるのかしら? 要領悪いしすっごく不器用じゃない(←要領の悪さと不器用さは私にしっかり遺伝している)。何かを始めようという気になったのはいいことだけど、これが途中で挫折しちゃったりしたらさらに無気力なるんじゃない?」
と心配した私に、
「いいのよ、今あれこれ心配しなくても。もぬけの殻みたいになっていたお父さんが外に出ようと思い始めたっていうだけでも大進歩よ。お父さんが続けられなくなったら私が耕すさあ」
と母。はたしてどうなることやら......と思っていたのですが。


農業を始めてからの父は、まるで水を得た魚のように元気になったのです。
朝は母よりも早く起きてきて作業着を着込んで畑に出発。朝から晩までぶっ通しに作業して、真っ暗になるまで帰ってこないそうです。脱水症状が心配だから水分補給だけはしっかりね!と、何度も何度も念を押す母の声を背中に、わかってるわかってる、とまるで遠足に出かける子どものように畑に「すっ飛んで」行くんだそうです。


天気が悪くて畑に行けない日は、近所のホームセンターに入り浸って農具・苗や種芋・肥料を物色。今の自家用車は荷物がたくさん積めないからと、農作業用の軽トラックを中古で購入。勢い余ってトラクターも中古で購入。トラクターや農機具を保管しておく納屋としてトタン葺きの小屋まで建ててしまいました。納屋に収まっている種苗や農機具の充実したラインナップを見た父の友人は、「あきさみよー、篤農家だねえ」と苦笑していたそうです。何かを始めると、すぐ道具に凝り出すところも私に似ています。


今年の2月に帰省したときには、実家の居間に「農業日誌」と題した大学ノートが置いてあって、めくってみるとびっしりと毎日の作業記録や作物の生育状況が書き込まれていました。「ややっ、お父さん、本気だな」と、私はずいぶん安心したのでした。リハビリ、大成功です。


それ以来、実家との電話はもっぱら「お父さんと畑」のこと。今日はトウモロコシを植えた、今日はにんじんを植えた、今日はいんげんを収穫した、アレを植えた、コレを獲った、近所の人に配っても配ってもどんどん獲れるから、これからは市場に売りに行くことにした......。父の畑はどんどん拡張し、作付けしてある種類もけっこうな数に上っているそうです。不器用だとばかり思っていた父が農作業になると意外な才能を発揮するらしく、通りすがりの農家の人が「ずいぶんきれいに手入れしてるねえ。どうやっているの?」と感心してのぞきに来たりするのだとか。へぇ〜、ほんとかよ。


「それがねえ、お父さん、かわいいのよ」
と、母が電話口でくつくつと思い出し笑いしながら話してくれました。


農作業に夢中な父は、目が覚めている間は少しでも長く畑で作業したいのですが、母はそうもいきません。なるべく父と一緒に畑に行って手伝ってあげたい気持ちは山々なのですが、保育園に行き始めた孫の送り迎えもあるし、趣味のウォーキングもしたい、洗濯や掃除などルーティンの家事もあります。だから、朝起きて「はたけ♪ はたけ♪」といそいそと準備している父に
「お父さん、今日は私、忙しくて一緒に畑に行けないから、お弁当持って行ってね」
と、作っておいたお弁当を手渡そうとすると、父は、
「この暑いのに弁当なんか持って行ったらすぐに傷むだろう。午後遅くなってもいいから君が届けてくれよ」
と言って、受け取ってくれないのだそうです。
「大丈夫、大丈夫、味付けも濃くしたし、ちゃんと保冷剤も入れておいたから」
と母が言っても、
「いやいや心配だ。そんなたいした距離じゃないんだから頼むよ」
と、そのままお弁当を持たずに出かけてしまう父。


まったくもう、忙しいのに......と母はぶつぶつ言いながらも、なんとか時間をやりくりして、お昼には父の畑にお弁当を届けに行くのです。父は母が来ると、自分で呼びつけておきながら
「わざわざ悪いなあ〜。ありがとう」
と、作業の手を休め、
「一緒に食べよう」
と言って、私はすませてきたからいらない、という母にむりやりおにぎりを一個分けて、
「今日はここからここまで耕したんだ。それからラインを引いて、畝を作って......」
と午前中の作業成果を得々と報告します。そして、わしわしとおにぎりを頬ばり、
「うまいなあ。やっぱりお母さんが握ったおにぎりはうまい! 二人で食べるともっとうまい!」
と見え透いたお世辞を言うのだそうです。


へえ〜、あのお父さんがねえ。私の記憶にある限り、父が母の料理をほめたことはほとんどなくて、「うちのお父さんはなにを作ってあげてもちっとも喜んでくれない。ほんとに作り甲斐がない」と母はしょっちゅうぶつぶつ言っていたものでした。外面は良くても家の中ではいっつも無愛想で亭主関白。その父が「一緒に食べよう」だの「お母さんが握っておにぎりはうまい」だの「二人で食べるともっとうまい」って......。


「今さらおにぎりひとつでほめられてもねえ、お母さん」
と、苦笑しながら私が言うと、
「お父さんは、畑の成果を見てもらいたいのよ。私がお料理をほめてもらいたかったのと同じように、自分が作ったものを誰かに見てもらって、ほめてもらいたいんでしょ。だけど『見に来てくれよ』って言うのは照れくさいから、わざわざお弁当にかこつけて私を呼びつけるのよ」
と、母はケラケラと笑っています。


母も最近は父と二人で「農業に本腰を入れることにした」んだそうです。先日は朝4時に起きて二人で収穫したニラを市場に出荷してきたのだとか。3千円で売れたそうです。
「すごいじゃない、売り上げが出るなんて」
と私が言うと
「なに言ってるのよ、設備投資にこの何十倍もお金かかってるんだから」
と相変わらずケラケラ笑いながら話す母。


今度帰省するときには、私も作業着を準備して「お父さんの畑」で一緒に作業をするつもりです。そして三人で「お母さんの握ったおにぎり」を頬ばりたいと思います。