彼女が遺したもの

数年前、オットと二人で関わったあるチャリティーイベントを、市内の私立高校のボランティアサークルが手伝ってくれたことがありました。


チラシや立て看板づくり、野外イベントのアイディア出しなどをお願いしたのですが、高校生らしい明るく溌剌とした感性で、楽しそうに作業していました。彼女たちが作業していた一角は、常に華やかな笑い声が絶えず、花咲く乙女達の花咲く野辺といった感じ。まさに「ザ!青春」な光景でした。グチっぽくひねくれてばかりいた自分の高校時代と引き比べて、彼女たちの輝く姿をまぶしく心洗われる思いで見ていたものです。若いってすばらしいことだったのね。青春って楽しいことだったのね。


そのサークルの中に白石さんという女の子がいました。色白でおっとりとした顔つきの彼女は、他のメンバー達に比べると口数が少なく地味な印象でしたが、よく見てみると、際だって聡明な学生であることがすぐにわかりました。


頼んだ作業はこちらの意図を十二分に理解して正確にこなす。文章を書かせても絵を描かせてもその場のイメージにあった的確なものを作り上げる。口数は少ないけれど、発する言葉のひとつひとつは思慮深く、少しも浮ついたところがありません。友人たちが「だって白石さんは成績いいもんね〜」と何度も言っていたので、学校でもかなりの優等生らしいことは想像つきました。しかし、優等生にありがちな傲慢な態度や押しの強さなどはちっとも見られず、常に控えめで物静か。実に好感の持てる女の子でした。


イベントが終わってしばらく経ってから、彼女たちのサークルがイラク戦争を題材にした演劇を上演するというので観に行きました。脚本と演出を白石さんが受け持ったそうです。


この演劇がすばらしく、「どうせ高校生の文化祭レベルでしょう」とたかをくくっていた私は心底驚きました。練りに練られた設定。鋭い問題意識。広い視野と深い思索にとんだ立派な「作品」でした。一緒に見ていたオットも同様で、「とても高校生が作ったレベルとは思えない。白石さんはすごい」としきりに感心していました。


彼女たちとは次第に疎遠になってしまいましたが、一昨年の夏、白石さんたちの高校の先生(彼女が所属していたボランティアサークルの顧問)に会ったときに、「そういえば、白石さん、どうしてます?」と近況を聞いたら、現役で東大に進学したとのこと。
「さすがですね。だってあの子は賢かったもの」と私が言うと、先生も「いやあ、ほんとに白石さんは優秀でした」とにこにこしながら言っていました。先生にとっても自慢の生徒だったのでしょう。


昨日、夕刊を読んでいたオットが顔色を変えて「これって白石さんのことじゃない?」と、ある記事を指さしました。


少し長いけど、引用します。

18歳で亡くなった女子大学生が残した研究論文が本になった。「『中国残留孤児』帰国者の人権擁護――国家という集団と個人の人権」(明石書店)。「娘が考えたこと、感じたことを少しでも多くの人に伝えたい。」奔走した母親の思いが実った。

 筆者は、白石恵美さん。東京大の1年生だった06年9月、脳内出血で倒れ、約2週間後に帰らぬ人になった。
 本になったのは、地元の茨城県にある私立茗渓学園高校2年の時に「個人課題研究」で書いた論文。先生から渡された数年分の新聞記事に心を動かされたという。当時は、中国残留日本人孤児らが老後の生活保障を求めて国家賠償請求を提起していた。戦後半世紀以上がたっても安寧を得られずにいた人たちがいることを知り、背負わされた歴史と国家の関係を調べた。
 本や新聞記事などだけではなく、裁判で戦う孤児の代表や弁護士らからも話を聞き、裁判所にも足を運んだ。04年12月にできあがった論文は、孤児が生まれた背景に加え、国家賠償や戦後補償などについても考察。06年には「図書館を使った『調べる』学習賞コンクール」で文部科学大臣奨励賞を受賞した。その年に大学に進学。亡くなる直前まで孤児の研究を続けていた。
 突然、娘を失った母親の瑞恵さん(49)は恵美さんが会った人たちを訪ね、孤児らの集会にも出向いた。娘が生きてきた道をたどるうちに「娘の残したものを形にしたい」との思いが強くなり、出版を考えた。これを受けた明石書店(東京)が、世界各国で起こっている人権問題を扱うシリーズ「世界人権問題叢書」の1冊として今月、出版した。
 高校生が書いた人権叢書は同社で初めてだが、担当の法月重美子・編集部係長は「すばらしい内容。じっくり読んでもらいたい」と話す。
 資料の出所や事実関係などを調べ、600枚を越える原稿を校正した瑞恵さんは言う。「娘の考えていたことがこれからの世の中のどこかにつながっていけばと思う。恵美はそういう形で生きている」

2008.6.6 朝日新聞夕刊14面


絶句しました。あの白石さんが18歳の若さで亡くなっていたなんて。素直で聡明で、なにをさせても優秀で、一点の曇りもない青春を過ごしているかのように見えたあの少女が。病に倒れることがなければ、日本最高の大学で思う存分研究し、思索を深め、どのような形になったかはわからないけど、確実に社会に貢献できる優秀な人材になっていたはずです。すてきな彼氏もできて、愛し愛される喜びを味わい、たくさんの師や友人と出会い、充実したすばらしい人生を送っていたはずです。それなのに......。惜しい。あまりにも惜しい。ほんのわずかな交流しか持たなかった私ですらこんなにやりきれない思いをするのだから、彼女を愛し、期待していた周囲の悲しみはいかばかりでしょう。


記事を改めて読むと、白石さんが高校生の頃から持ち続けた問題意識に真面目に取りくみ、熱心に研究していたことがわかります。そして、娘を失った悲しみの中、娘の情熱を形にしたいと奔走した、すばらしいお母さんの姿が浮かび上がってきます。あの聡明な白石さんは、このお母さんに愛されて、育てられたのですね。


イラク戦争を描いたあの脚本もそうでしたが、彼女の視点は権力に翻弄されてきた弱いもの・虐げられているものに常に向けられています。少しでも社会が、世界が、よくなるにはどうしたらいいのか? なに不自由ない青春を送りながら、まっすぐな理想を抱き、世の中と真摯に向き合っていた彼女の生き方を目の当たりにして、怠惰な極楽とんぼな私は身が引き締まる思いです。


18歳という、あまりにも短すぎる生涯でしたが、彼女が生きてきた証は私の胸にもしっかりと残っています。白石さんが書いた論文、まだ販売されていないようですが、さっそく読んでみようと思います。