ちゃんと見えるよ

弟は某自治体で福祉関係の仕事をしている。今回の上京の目的は介護・リハビリ器具の現状を知るための研修だったそうだ。


研修で直に現場の声を聞きいて、ともすればマニュアル通りの対応しかできない「お役所仕事」に陥りがちだった自分へとてもいい刺激になったと言う。


「『障碍者の立場に立って』って口で言うのは簡単だけど、実際に話を聞くとホントに目から鱗の事ばかりだよ、姉ちゃん。今回の研修で聞いたんだけど、海辺のリゾート地でスキューバーダイビング体験ツアーとかあるだろ? あのツアーに、全盲の参加者ってけっこういるんだって」

「スキューバー? 見えないのに?」

「そう、オレらみたいな『健常者』の感覚だと、目が見えないのに海に潜ったってしょうがないじゃん、って思っちゃうじゃない? でも違うんだよ。見えない人たちでも、海に潜って水に触れて、海底を歩く感覚を楽しむために毎年ツアーに参加しているんだってよ」

「へえ〜」

「それからさ、これは隣町の役場の人から聞いたんだけど、その町主催の花火大会では町在住の障碍者には特別席が用意されているんだけど、視覚障碍者の人が『私の席はできるだけ前の方にしてください』ってお願いに来るんだって。花火の色や形を見ることはできないけど、お祭りのにぎやかな雰囲気や音が楽しいからって」

「その人たち、ちゃんと見えてるんだ。逆に言うと、お願いに行かないと視覚障碍者の席は後ろの方に回されたり、あるいは用意されてなかったりするのかもね。どうせ見えないからって」

「そうなんだよ。ひとくちに『障碍者の立場に立って』って言うけどさ、こういう話聞くと、ああ、オレってほんとに何にもわかっていないんだなあって思っちゃうね」


私も、弟の話を聞くまでは、視覚障碍者の人が花火大会を楽しむなんてこと、想像すらしなかった。私が「障碍者の立場に立って」行動しようとすると、「目が見えないんだ、かわいそうに。いたわってあげなきゃ。世話してあげなきゃ」と、「〜してあげる」という態度になってしまう。そこには「目が見える自分」を上位に置いて「彼らに施してやる」という傲慢な気持ちが潜んでいるのかもしれない。そんな自分の傲慢さをごまかすために必要以上に下手に出て、ヘンに媚びたり。どう接していいのかわからないから、なんとなく鬱陶しくて無意識に接触を避けたり。「障碍者と接する自分」という自意識に振り回されている感じ。


障碍者である以前に、みんな同じ人間。花火もスキューバーも、「見える人」たちと同じように見ることはできないかもしれないけれど、彼らなりの感じ方で見ることができるし楽しむことができる。目の見えない人だからこう、障碍者だからこう、と、どこかで線を引いている自分に気づかされて、まさしく目から鱗だった。すごく陳腐な言い回しだけど「心のバリアフリー」ってこういう時に使う言葉なんだね。


「相手の立場になって考える」ってホントに難しい。言うのは簡単だけど