私を嫌いな人もいる

「こっちはタイミング合わせて作ってるんだから、もうちょっと考えて出せよ! 出しゃあいいってもんじゃないだろ!」


アシスタントシェフにいきなり怒鳴られた。


バイト先のことである。連休中とあって、いつもの倍近いお客さんが入り、フロアーも厨房も殺気立っていた。


前菜を出して、下げて、メインを出して、下げて、デザートが出て、そして最後にコーヒー、という順番。7番テーブルの客はメインの皿が下がって10分以上経っていた。デザートができあがるまでまだ時間がかかりそうだったので、コーヒーとカプチーノを先に出そうと準備を始めたその瞬間である。


かなり強い怒気のこもった言葉に、思わずビクっとして、手に持っていたお盆を落としそうになった。


「ごめんなさい、こっちの不注意でした」
とすぐに謝って、準備しかけていたコーヒーカップを元に戻した。厨房の彼は忌々しそうに舌打ちして、作業に戻った。


ドキドキした。彼は元々口数の少ない人だが、特に私とは口をきかない。この店で働き始めて半年以上経つけど、会話らしい会話を交わしたことはほとんどない。なんどかこちらから話しかけたことはあるけど、いつも生返事。しかも、その生返事すらひどくめんどくさそう。私と口をきくのは「○○してください」「○○を取ってください」という業務連絡くらい。


誰とでも仲良くなれるのが得意技、とうぬぼれていた私、たいていの人とは知り合って2,3ヶ月も経つと軽口を言い合える「仲間」にはなれるつもりでいた。しかし、彼は私と仲良くなりたいなんてこれっぽっちも思っていないみたいだったので、いつからかこちらからアプローチするのはやめてしまったのだ。なんだか得体の知れない人だなあ......と、近寄りがたく感じていただけに、いきなり怒鳴られたのはショックだった。


そんな言い方ないじゃない! 私だって、フロアーの様子を伺いながらそれなりに気を遣っているのよ! お互い忙しくてテンパっているんだから、少しくらいミスするでしょう。いきなり怒鳴ることないじゃない! 舌打ちすることないじゃない! 


――言い返したい気持ちもあったけど、そんな余裕はどこにもなかった。彼が私のことをほんとうに忌々しく思っている様子がありありとわかったのがつらかった。この人、私と仕事するのがイヤなんだ......私のこと、キライなんだ。


あとで、オーナーが出てきて、「気にすることないから。あのときの彼は元々機嫌が悪かった上に、忙しくて余裕がなかったんだね。たまたまとこりさんに八つ当たりしただけだよ。まともに受け取らないように」とフォローしてくれたけど、ショックはなかなか消えなかった。夜寝付けないほどだった。


これくらいのトラブルや叱責、社会人なら日常茶飯事だろう。早めに消化して、あと引かないように処理しなければならない。わだかまりを残しちゃいけない......と、つとめて軽く考えようとしても、どうしてもあのときの舌打ちの音や、彼の怒声が耳にリフレインして、ドキドキしてしまう。


しばらく働いていなかったので、私の周りには私が自分で選んだ、私が会いたい人、私と気が合う人、私が好きな人とばかりだった。すべてが冗談と軽口で形成されていて、誰も私を正面切って非難したり叱ったりすることのない、穏やかな世界にいたのだ。だから、私に向けられた、一部の隙もない怒りと、苦々しげな視線の強さがひどくこたえた。


ずいぶん長い間ぬるま湯に浸っていたんだなあとつくづく思う。これくらいの感情の食い違いで、こんなに落ち込むなんて。たったこれだけの出来事でいつまでもいつまでもウジウジ考え込んでしまう。自浄能力が著しく低下しているのを感じる。


今朝も「これからバイトかあ」と考えると、気が重くておなかが痛くなってきた。職場に行って、彼の顔を見るのが怖い。


まるで登校拒否のこどもみたいじゃないか。「あの人が怒るから、行きたくないの」「だって、あの人、私のこと嫌っているんだもん」と、誰彼かまわず泣いて訴えたい気持ち。いやマジで。


ほんとうに私って精神が脆弱だなあ。普段はあんなにがさつのクセしてさ。いい年してみっともない。


働いてお金をもらうのはラクじゃないのよ。みんながみんな、私の友達、私の味方じゃないってことを思い知るいい機会です。さあ、頑張って働きましょう。オトナになりましょう。