一国一城の主

牛久に住んでいた頃、かかりつけだった美容師さんから「独立しました。お近くにお越しの際にはぜひお寄りください。今後ともよろしくお願いいたします」という案内ハガキが来たのが2年前。独立した彼が開業した美容室が、ちょうどいま住んでいるマンションの目と鼻の先だったので、こちらに越してきてからは、ずっと彼のお世話になっている。もう3年近く担当してもらっているので、あれこれ指示・説明する手間が省けてとても気楽。


先日、カットしてもらいながら、
ゴールデンウィークはどっか行くの?」と訊かれた。
「うーん、まだきちんと決まったワケじゃないけど、トルコに行く予定。でもGWは高いから、ちょっとずらしていくけどね」
「ご主人、休み取れるの?」
「だって、ウチ、自営だもん。自分の都合に合わせて休暇が取れる、これ、自営業の数少ないメリットね」
「なるほどね。でもいいよね、休み取れるんだから」
「だって店長さんだって、お店がヒマな時を見計らって、お休み取ってどっか遊びに行ったりするでしょ?」
「休み取れないもん、全然。独立してから2日以上休んだことないよ」
「え〜? そうなの? お盆や正月は?」
「年末年始はかきいれ時だし、お盆もね、休もうと思えば休めたんだけど、店開けてると、数は少ないけどお客さんは来るからね。せっかく来てもらったのに店が閉まってたら、そのままヨソの店に取られちゃいそうで、焦っちゃうんだよね」
「一度来た客は逃さないと(笑)」
「そうそう、1人でもしっかりつなぎ止めておきたいんだよ(笑) いまんとこ自分1人でやってるからね。これが人を雇う立場になったらそれなりに休まなきゃいけないんだろうけど」


そう。独立開業してから、彼はずっと1人で店を切り盛りしている。シャンプーもリンスもカットも店長さん1人。カットしている間にも予約の電話を受け、床に散らばった髪をほうきで掃き、汚れたタオルやエプロンをまとめて洗濯かごに入れ、客足が途絶えた時間を見計らって洗濯機を回し、トイレを掃除し、備品の補充をし、パーマが終わったお客さんにコーヒーを淹れる。他にも雑事・雑用は山のようにあるだろう。ゆっくりお昼を食べるヒマもないという。


「でもさ、前、牛久の美容室にいた頃は、シャンプー・リンスとか掃除とか、雑用は全部アシスタントがやってくれたんでしょ? 店長さんは雑事に追われることなくカット・パーマに専念できたし、交代制で休みもちゃんと取れてたんだよね」
「そうそう、あのときはよかったなあ。社員旅行もあったし、少ないけど残業代も出たしね」
「いまはすごい大変じゃない。休みはないし、仕事は倍増だし」
「そうそう、ほんとに、こんなに忙しいと思わなかったよ」
「やっぱり雇われてた時の方がいいなあ、とか思ったりしない?」
「いや、それはないね。仕事は増えたし、休みもないし、借金だらけで先行きチョー不安だけど、やっぱり現在の方がいいね、うん、現在のほうがいい」
「やっぱ、そうかなあ」
「そうだよ。どんなにきつくても疲れてても、それは自分で選んだ苦労だから納得できるんだよ。納得できるから、不思議とストレスにならないんだよ。体力的にはホント、きついけどさ、精神的にはいまほどラクなことはないね。まあ、自分がちょっとノー天気なだけかもしれないけど」


うーん、「納得できる苦労」か。それこそ一国一城の主の醍醐味なのかも。


そういえば、オットがフリーになったときには、「収入は減るだろうけど自由な時間はできるだろうから、それだけが強みかな」なんて思っていたのだけれど、ところがどっこい、サラリーマン時代より遙かに仕事量は増えたし、始業・終業時間が決まっていない分、一日中だらだらと切れ目なく仕事をしている。開業したてなので仕事を選ぶゆとりもなく、全然儲けにならない仕事も山ほど抱えているし、当然のことながら収入は減るわ、経費はかかるわ、ボーナスも扶養手当も福利厚生も将来の保証もない。それこそ「先行きチョー不安」な状態。


3年前、オットが「会社を辞めて独立する」と言いだした時には、こういう状態になることを恐れて随分反対した「寄らば大樹」の私だった。それでも、今仕事をしているオットを見ていると、カイシャやめてよかったな、独立してよかったな、と素直に思えるのだ。


サラリーマン時代のオットは、ほとんど愚痴をこぼすことはなかったけど、きついんだろうなあ、疲れてるんだろうなあ、とすぐにわかった。仕事以外の人間つきあいもほとんどなかったし、仕事の話をあまりしなかった。有給も長期休暇も、「仕事で疲れた体を休めるための休み」であって、「レジャーのための休み」にはならなかった。


現在の彼は、ほんとーーーに楽しそうに仕事をしている。家でも仕事の話をよくする。交友範囲もぐんと広がった。ヒマさえあれば誰かと会っている。今日はこんなことがあった、こんな人と会った、と毎日毎日報告するその生き生きした彼の様子は、見ているこちらが妬ましくなるくらいだ。確かに生活は不安定になったけど、それなりにある程度の待遇が保証されていたサラリーマン時代よりも、不思議と精神的には安定しているのだ。


「自分で選んだ、納得できる苦労なら、ストレスにならない」。先行きは不安だけど、今の方が未来はあるような気がする。社会人として「落ちこぼれ感」を常に抱いている私は、くたくたになりながらも、楽しそうに仕事をしている、店長さんもオットもまぶしくてしょうがない。


苦労も、喜びも、自分で選んだ人は幸福なのね。