アンクル・サムの鍋

今回の帰省で、石垣島の叔母(父の姉)を訪ねました。島に到着した日はちょうど「十六日祭」といって、グソー(後生、あの世、他界)の正月を祝う沖縄独特の行事の日でした。この日は一族の者が墓参りをして、重箱料理や線香を供えて、日がな一日墓前でごちそうざんまいする、ちょっとしたイベントの日なのです(現在はかなり簡略化されているそうですが)。今でも石垣島では十六日祭には新聞が休刊になり、学校は午前中だけになります。昔は会社も学校も全休だったそうです。昔の子ども達は、学校は休みだし、親戚が一堂に会してにぎやかだし、おまけに思う存分ごちそうが食べられるこの「ジュウルクニチー」をとても楽しみにしていたとか。


この日、叔母がお墓に持ってきたクヮッチー(ごちそう)は、田芋の煮付け、自家製かまぼこ、クーブマキー、お赤飯など。クーラーボックスにお刺身も用意していました。料理上手な叔母の手料理に舌鼓を打ちながら、叔母がクヮッチーを詰めてきた大きな鍋にふと目がとまりました。


「おばさん、このお鍋、U.S.1944って書いてあるよ。アメリカ製?」
「気がついた? これはあなたのおばあちゃんの形見のお鍋なのよ。私は今日、このお鍋をあなたに見せたくて持ってきたの。このお鍋はおばさんの宝物なの」


鍋はジュラルミン製。直径は40センチほどもある大きなものです。終戦直後、貧困のどん底にいた沖縄島民に米軍が放出したララ物資の中の一つとして、私の祖母が手にしたものでした。U.S.とは「united state」の略ではなく、uncle samの略で、このuncle sam社は、主にキャンプ用の食器や飯ごうなど、軍が野戦で使う調理器具を扱っていた会社だったそうです。言われてみれば、この頑丈でなんのしゃれっ気もないデザインはいかにも軍用といった感じです。


1940年代の与那国島。夫を早くに亡くし、若くして未亡人になった私の祖母は、戦中戦後の混乱期に4人の子どもを抱えていました。あの時代は日本中が貧しかった。日本の中でも沖縄は特に貧しく、沖縄の中でももっとも辺境にある与那国島はさらにさらに貧しかったのです。そんな中、祖母は、女手ひとつで畑を耕し、行商をし、見よう見まねで豆腐を作って売り、魚を捕り、あちらこちらで雑用をしてその日その日を必死で生きてきました。日用品を買い整えることもままならない日々の中、ララ物資で配給されたこの頑丈な鍋は大変な貴重品。煮る、焼く、炒める、ほとんどの料理はこの鍋ひとつでこなし、あるときは洗濯用のタライになり、ある時は豆腐を作り、芋をふかし、配給の得体の知れない粉をかき集めて重曹で膨らませた「パンもどき」も焼いたそうです。もちろんお米も炊けたのですが、貧しい中、この鍋が白いご飯で一杯になるようなことは夢のまた夢だったそうです。


それでも終戦後3年も経つと、島の生活は少しずつ豊かになってきました。貧しいのは相変わらずですが、それでもお祝いや法事など特別な日には、乏しい材料ながらもお赤飯を炊いたり、豚肉を煮たりしてそれなりにごちそうを作ることもできるようになっていたそうです。


しかし、母子家庭だった祖母一家にはまだまだそんな余裕はありませんでした。
ある日、4人の子ども達の運動会がありました。お弁当の時間、他の家族は重箱にいなり寿司や天ぷらや煮付けなどおいしそうなごちそうをたくさん詰めてにぎやかに食べているのに、祖母一家は、茹でたそうめんをニラと豚脂で炒めあわせただけのソーミンチャンプルーを、このアンクル・サムの鍋いっぱいに入れて持ってきたのでした。それが祖母が子ども達に作ってあげられる精一杯のクヮッチーだったのです。


しかし、周囲に較べて明らかに見劣りするお弁当を人前で開くのは、いかにもきまりが悪くみじめに思えたのでしょう。祖母はそっと子ども達を学校の裏庭に連れていき、人目につかないその場所で黙々と鍋の中のソーミンチャンプルーを食べさせたそうです。まだ幼かった子ども達も、祖母の悔しさをよくわかっていたので、誰も何にも文句は言わなかったそうです。


貧しさに打ち勝つ武器は教育しかないと、祖母は苦しい生活の中から必死で4人の子ども達の学費を工面し、本島の高校へやりました。子ども達はそれぞれ石垣島や本島で伴侶と仕事を得、時代の移り変わりと共に暮らしはどんどん豊かになっていきました。祖母は一人与那国島に残り、ライフワークとなった島の民俗芸能の普及活動や役場の民生委員として忙しく立ち働いてていました。


一人暮らしの祖母が持つには、アンクル・サムの鍋は少々大きすぎます。叔母はことあるごとに、
「ねえ、このお鍋、親戚の集まりの時にたくさん煮物を作ったりするのに使い勝手が良さそうね。私に譲って」
と祖母に頼んだそうですが、祖母は「これは私の鍋だから」と言い張り、絶対に譲ってくれなかったそうです。


2年前、祖母が89歳で亡くなったとき、叔母は形見としてこの鍋をようやく手にすることができました。60年近く釜にかけて使い込んでいたはずの鍋は、隅から隅までぴかぴかに磨き込まれていて、ススの汚れなどどこにも見あたりません。


「この鍋はばあちゃんの生きてきた証なんだろうね。必死で生きてきた終戦後の貧しい日々を、ずっと忘れずにいたいと思っていたんだろうね......」


祖母とアンクル・サムの鍋の思い出を語りながら、叔母は涙をぽろぽろ流しました。そして、
「あなたのお父さんや私やおばあちゃんが、どんな時代を過ごして生きてきたのかを、この鍋を見てわかって欲しかったのよ」
と私に言いました。


その祖母の孫である私は自他共に認める調理器具マニアです。私のキッチンにはたくさんのお鍋があります。ダッチオーブンル・クルーゼ、保温鍋にパスタ鍋。一つ何万円もする高価なものもあります。鍋だけじゃなくて、オーブンもフードプロセッサーもミキサーもワッフルメーカーも持っています。


でも、私がこれらの調理器具を使って作るどんな料理も、祖母がアンクル・サムの鍋で作ったソーミンチャンプルーにはかなわないでしょう。祖母は子ども達のためにアンクル・サムの鍋で料理を作り続け、「生きていくこと」を伝えたのです。


私の料理には、私の家族に、後の世代の人々に、何かを伝える力があるでしょうか?