確認せずにはいられない

幼い頃、家族みんなで出かける際、そう、たとえばみんなでトンカツでも食べに行こうか!と、出かける支度をしているようなとき、私たちきょうだいや父はとっくに着替えをすませて準備万端なのに、母だけがいつまでも三面鏡の前で化粧をしていて、洋服ダンスからいろんな服をとっかえひっかえして着たり脱いだり、を繰り返してとても時間がかかるのがじれったくてしょうがなかった。


いらいらしながら待っていると、ようやく化粧を終え、着替え終わった母が、父にむかって
「お父さん、どう? きれい?」
と聞く。
父はそんな母には一瞥もくれずに
「いいから早く車に乗りなさい」
と、とっとと車庫の方にいってしまう。母はめげずに、今度は私たちきょうだいに向かって
「どう? 今日のお母さん、きれいでしょう?」
と聞いてくる。おなかが空いていて一刻も早く出かけたい私たちは、母の身なりなんかどうでもよくて
「うんうん、きれいきれい」
とやっつけ返事でごまかしていたのだけど、母はなおも
「どんな風にきれい? この口紅の色、変じゃない?」
などと食い下がってくるのが鬱陶しくてしょうがなかった。


そんなことより、私は早く出かけたいの! トンカツ食べたいの! なんでうちのおかーさんは毎度毎度そういうくだらないことを質問するんだろう? 私たち家族にそんなこと聞いてもしょうがないのに。......と不思議だった。


そのころの母は、フルタイムで働きながら、三人の子供と地元町会議員の夫、それに住宅ローンを抱えて、育児に仕事に社交に息つく間もなく働いていた。毎日は職場の制服である青い上っ張りを着ていて、いつも汗びっしょりで真っ黒に日焼けしていて、お世辞にも「おしゃれ」だとか「きれい」という感じではなかった。周囲の誰もが母の身なりに目をとめることもなかったし、家族も、母がどんな服を着ていようがどんな化粧をしていようが大して興味はなかった。たぶん、母自身も自分のみなりにかまっている余裕はなかったと思う。


だから、今になって思うのだ。母は、家族で外出という数少ない機会くらい、ゆっくり時間をかけてお化粧して洋服を選んで、普段置き去りになっていたおしゃれの穴埋めをしたかったんだなあと。
そして気のない返事が返ってくるのは分かり切っていても、それでも「私、きれいでしょ?」と聞かずにはいられなかったんだろうと。「青い上っ張りだけじゃないのよ。私は、ほんとは、ほんとは、きれいなのよ」と確認せずにはいられなかったんだろうと。


イライラしながら待っている家族を尻目に、三面鏡にしがみついてお化粧をしていた母の後ろ姿を思い出すと切なくなってくる。私がもう少し聡明な子供だったら、そして、父がもう少し気の利く男だったら
「おかーさん、きれいだね! その服よく似合ってるよ!」
って言ってあげて、忙しくていっぱいいっぱいだった母にひとときの潤いを与えてあげることができたのに。バカだった私は、自分の楽しみだけで精一杯で、母のそんな気持ちに気づいてあげることができなかった。


そんな母の気持ちがわかるようになったのは、私が誰からも「きれい」だと言われなくなってからだ。
いや、いままでだって「とこりさん、きれいだね〜」なんてほとんど言われなかったけど、10代20代の頃は、若かったからいちいち他人に確認しなくてもある程度の自信は持っていられたのだ。自分だけで満足していればそれでよかった。でも、30も半ばを過ぎ、結婚して「オンナ最前線」から一歩退いてしまうと、自分の立ち位置がわからなくなってくる。誰かにきちんと自分のことを見ていてもらいたいのだ。そして確認したいのだ。


で、何が言いたいのかというと。
オット、たまには
「お、いいねー。きれいじゃん!」
ってお世辞くらい言えよと。


誰からも注目される機会なんてない。見てくれるのは家族だけ。その家族だって私の身なりに大して興味がないことは知っている。「どう?きれい?」と聞いても、気のない返事が返ってくるのはわかっている。それでも聞かずにはいられないの。だから、我慢しておべんちゃらのひとつも言ってほしい。減るもんじゃないんだし、言うだけならタダなんだから。