治療室の午後
車を持たない友人に頼まれて、となりまちの鍼治療院まで送り迎えをすることになりました。
宣伝をまったくしない治療院なのですが、相当腕の良い先生らしく、口コミだけでかなり遠くからも患者さんがくるという評判の所です。
古い一軒家の二階部分にある治療室に入ると、まるで時が止まったかのような空間が広がります。天井も床も古びて黒々と光っています。こちらも古びて角が取れてつるつるになっている大きな机には、ボロボロの予約ノートと黒電話。治療用のベッド(......というより寝台といいたくなるような代物)が2台。あちらこちらが破れている革張りのソファ。座ると床までお尻が着きそうに沈みました。森鴎外が使っていそうな薬棚には消毒用のアルコールと脱脂綿。昭和、いや、大正時代にまでタイムスリップしたかのような部屋の一角に、これだけは「現代」を感じさせるSONYの大きなスピーカーシステムとアンプ・CDプレイヤーがおいてありました。3段になった安物のCDラックにはクラシックのCDばかり50枚ほど入っていました。
50台後半の、全盲の男性が先生でした。テノール歌手のような美声、そして非常に優しく美しい言葉で患者の症状を細かく質問しながら丁寧に治療しています。先生にかかると、治療前は松葉杖をついてきていた患者さんが帰りはスキップしていくのだそうです。
たっぷり1時間以上はかかる治療の間、つきそいの私に気を遣って、あれこれと話しかけてくれました。
話の合間に、「先生、クラシックがお好きなんですね」と聞いてみました。
「もう、大好きでねえ。一日中聴いていたいですよ。あなたもクラシックはよく聴く方なんですか方?」
「聴くことは聴くけど、全然ミーハーで。こないだ教育テレビのグレン・グールドの番組を見て以来、最近はグールドのピアノばかり聴いています」
「グールド? 僕のいっちばん嫌いなピアニストですよ。私はどうしても受け付けないんですよ。ただ、彼が晩年に出したゴールドベルグ、あれだけはいいですね。あれは好きですよ。僕はねえ、グルダが一番好きなんですよ。フリードリヒ・グルダ。グールドと名前は似ているけど、全然違うタイプのピアニストです。モーツァルトが得意で、彼が弾くピアノソナタがほんとうにすばらしいんですよ。ちょっと聴いてみます?」
先生は治療の手を止めて、CDラックから一枚のCDを取り出してかけてくれました。
かなり古い型式のスピーカーシステムのようでしたが、まるでピアニストが同じ部屋で弾いているような臨場感で曲が流れ出しました。静かで、華やかで、少し哀しい、モーツァルトの旋律。
しばらく聴き入って、「いいですね。私、モーツァルト好きなんですよ」と感想を漏らすと、
「モーツァルトがお好きなんですか? 他には?」と先生。
「そうですね。モーツァルト以前の古い作曲家の方が好きかもしれません。バッハも割と好きですね。難しいことはよくわからないけれど、無伴奏チェロ組曲とか聴いていると心が落ち着きます」
「無伴奏チェロは、誰の演奏で聴いているんですか?」
「私の家にあるのはヨーヨー・マだったと思うんですけど」
「ヨーヨー・マ? ダメダメ! 無伴奏チェロなら、もっとすばらしい演奏がいくらでもありますよ。私のお薦めはシュタルケルです。カザルスのお弟子さんでね。無伴奏チェロと言えばカザルスが有名ですけど、私はシュタルケルが一番だと思っているんですよ。待っていてくださいね。いま聴かせてあげますよ」
そう言って、先生はまたしてもラックからCDを取り出しました。全盲であるはずなのに、そのCDラックのどこになにが入っているのか完璧に把握していて、お目当てのCDをすぐに見つけ出し、かけてくれました。私に聴かせる、と言いながら、曲が始まると、私よりもはるかに熱心に聴き入り、しばらく黙り込んだまま曲に没頭しています。うっとりと天井を見上げ、深く嘆息しながら「ああ、いいですねえ。すばらしいですねえ」と独り言のようにつぶやきました。
古い治療室の、古いソファに座っている私、古い寝台に横たわっている知人、そして歯がほとんど抜け落ちたよぼよぼの年寄り猫までもが、先生の深く静かな感動に伝染したかのように、しばらく荘厳なバッハのチェロの響きに聴き入っていました。
開け放たれた窓から初夏のさわやかな風が入り込み、低いチェロの音色と混じり合いながら、その場の空気をしずかにかき乱していました。
聴きこまれて聴きこまれてボロボロになったCDジャケット。CDを取り出す指の正確さ。そして、「いいでしょう、すばらしいでしょう」と何度も繰り返す先生の美しい声。正直言って、グルダのピアノソナタもシュタルケの無伴奏チェロも、ほんとうにいいのかどうか、私にはわかりません。でも、これらの音楽を心から美しいと思い、深く愛している先生の心は、強く私に伝わってきます。
なにかを心から愛し、知悉している人から愛しているものについての言葉を聞くのが、こんなにすばらしいことだとは。難しくて堅苦く、取り澄ましたイメージが強い「芸術」が、初めてぴったりと私の心に寄り添ってきたかのように感じました。
私は久しぶりに感動しました。音楽に、ではなく、先生の音楽を愛する心に。
来週、私は先生の治療院で鍼治療を受けることにしました。
極度のビビリンで、「ハリ」と聞いただけで敬遠していた鍼治療ですが、あの治療室で、先生が解説するバッハを聴きながら治療を受ければ、長年私を悩ませ続けいた肩こりが良くなるような気がします。
- アーティスト: シュタルケル(ヤーノシュ),バッハ
- 出版社/メーカー: BMG JAPAN
- 発売日: 2007/11/07
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 3回
- この商品を含むブログ (8件) を見る