悲しくてやりきれない

友人たちとの飲み会の席で、加藤和彦さんの自殺が話題になりました。
私は「帰ってきたヨッパライ」や「あの素晴らしい愛をもう一度」はもちろん知っているけれど、彼の最盛期は知りません。物心ついてからはすでに「大御所」でしたが、少しも偉ぶっているところがなく、柔和でおしゃれですてきなおじさまという感じ。最近ではアルフィーの坂崎さんとのデュオ「和幸」での活動が印象的でした。


恋人や親しい友人に遺書を書き、大切なギターを譲り、古い友人に電話をかけ、離れて住んでいた母親を見舞っていたというのですから、はっきりと覚悟しての自殺だったんでしょう。


飲み会の席にちょうど彼と同世代の女性がいたのですが、彼女は彼の自殺に関して「腹が立った」と言いました。


「同世代だから、彼の死は他人ごとは思えなかった。ショックだった。残念で悲しかった。でもね、遺書に『音楽でやるべきことがなくなってしまった』って書いてあったってのをきいて、猛烈に腹が立ってきたの。だって、あんなに有名で、お金もあって、才能もあって、『やるべきことがない』んて! なんだってできたわよ! 心や体にハンディキャップのある人たち、戦争や災害で傷ついた人たち、環境保護のため、貧困に苦しんでいる人たち、いろんな場所でいろんな理由で楽しみや癒しを求めている人がたくさんいて、彼くらいの知名度と才能があれば、それこそギター一本だけでも人々を勇気づけることができたはず。社会のためになったはず。いろんなことができたわよ。『イムジン河』を歌っていた彼じゃないの。そう考えたら、私、悔しくて腹が立って......」


そう言った彼女は、30年以上も透析治療を受けながら、野良犬猫の里親募集の活動や動物の殺処分反対運動など自分のできる範囲で熱心に取り組んでいる人です。自分たちの運動や活動がなかなか大きな輪にならず、もどかしい思いをしているだけに、彼の自殺という選択に納得ができないのでしょう。


でも、人間の関心や共感のむく方向はそれぞれだし、大きな心の闇を抱えてしまってそこから抜け出せずにいた人にむかって「誰かのために何かできたでしょう?」と言うのは酷です。まして彼は重度のうつ病を患っていたそうですから。自分の人生だけでなく周囲の事象すべてに希望がもてなくなった、それは彼のせいではなく病気のせいなのだから。


でも、「誰かを助けることによって自分も助けられる」ということはあると思います。「助ける」という方法はなにもボランティアや政治活動のようなおおきなことではなくて。一緒にいること、ご飯を食べて、笑って、怒って、歌を歌って。ただそれだけでも誰かを助けることができるはず。


自分で自分に自信が持てないとき、なにもかもがつまらなく思えるとき、「私は私の力だけで生きているんじゃないのと同じように、私のちっぽけな存在でも誰かが生きるための小さな力になっているのかもしれない」と考えます。そう考えると、コンプレックスだらけの私でも、しっかりしなきゃね、とちょっとだけ元気になるような気がするのです。


でも、そう考えることができるのは、私がほんとうの「心の闇」にとらわれたことがないからなんだろうな。


結局、彼を救うことは誰もできなかったのかしら。
坂崎さんが「彼の悩みに気づいてあげられなかったことが残念でなりません」とコメントしていたけど、周囲の人はほんとうにつらいでしょうね。自殺って本人だけではなく、彼を愛していた人々のこころまでも殺してしまいます。


ご冥福をお祈りします。