勉強中です

日本橋高島屋で開催されたいけばな草月展をみてきました。私の先生の作品が出展されているのです。
私は華道界っつーか、お花の世界の流派ごとの特徴みたいなのにはあまり詳しくないんですが、私が習っている草月流っていうのは「和服着て、床の間の前に正座して花ばさみでぱっちーん」というようなクラシカルな「華道」ではなく、わりと自由なのが特徴みたいです。なにせ創始者勅使河原蒼風の有名な言葉に「若しこの世の中に、植物が一つもなかったとしたらどうだろう。どっちを見ても花はない。そういうとき私たちは、一体何を活けるだろう。私は、そこに石があったら石、若しくは土があったら、土を活けるだろう」というのがあるくらい。


大きな作品になると、花材もお花だけで麻紐とかワイヤーとかガラスとか鉄とか、お花のイメージからはほど遠いものも多用されています。作品の大きさもフォルムも、大胆不敵縦横無尽で、もはや工作?なにかの装置?と思えるものも。


これが私の先生の作品。吊ってあります。わがお師匠さんだから、というわけではないけど一番好きだな。


そのほか印象に残ったの作品たち。




一緒に行ったオットが、このときの感想をmixi日記で次のように書いています。

むずかしいことは分かりませんが、ドシロートの徳田がいけばなを見るポイントは、ただひとつ。
花材が、「いきて」いるかどうか。
徳田にとって、いけばなは、空間と色彩の芸術であるという以前に、「生け花」であり、「活け花」なのです。
生命を扱っている以上、こねくり回して、命を殺してしまっているのは、その時点でアウト。
言葉は悪いですが、その傲慢さに耐えられないのです。
その意味で、若手作家さんのコーナーは、とても感動でした。
素直に、逆らわず、あくまでも主役は植物の側。
「私の」技巧ではなく、「対象からの」インスピレーションが先。
そのみずみずしさに、心から美しいと思い、ほっとできるのです。
DOに先んじるBE、とでもいうのでしょうか。
この感性を、大切にしたいなぁ。

↑オットの意見に私もおおむね賛成だけど、いろんな材料を使ってもてるテクニックを駆使しまくって、頑張って頑張って作り上げられた作品もそれはそれでアリだと思ったり。作り込むアグレッシブさを見習わなくては。とにかく私はまだまだ発展途上。いろいろ見てたくさん吸収しなきゃね。


で、最近いけたのはこれ。



花材が持つ個性や作品のコンセプトより、「この花、長持ちするかな」が一番大きなテーマ。このせこさの克服が一番の課題です。