彼女のこと――「一緒に撮っている」

「最初は空の写真ばかり撮っていました」
彼女の言葉に胸を打たれた。
一昨年の9月、待ち望んで、ようやく授かったこどもを流産で失った。受けた傷は大きく、しばらくは引きこもり状態だったという。茫然自失の日々が続き、立ち直るきっかけになればとカメラを手にするようになったのは数ヶ月後のことだった。


カメラを手にした彼女に、夫が立派な単焦点レンズを買ってくれた。
「彼なりに私を気遣ってくれたんでしょうね。普段はけっこう財布の紐がかたい人なんだけど、そのときは何にも言わずにポンと買ってくれました(笑)」


「空の写真ばかり撮っていた」時期から次第に人の写真を撮るようになっていった。街を歩くちょっと変わった人に声をかけたり、双子の姪っ子たちだったり……。最近は人物よりも「人の気配を感じる風景」を撮ることが多いとのこと。薄暗い教会の中で揺れるローソク、山登りの途中、登山者がそっと積み上げた石、夜の窓の明かり。


毎日の食事を記録する料理写真ブログも作っていた。料理コンプレックスがあり、それを払拭するきっかけになればとも思ったという。

「私、先端恐怖症なんですよ。今でも包丁を持つと緊張するんです」

去年の大晦日まで続いていたというそのブログをのぞかせてもらったが、パスタと炒り豆腐とおみそ汁の献立だったり、シチューと一緒にきんぴらがあったり、一人の夜はサラダうどんだけだったり……と、ピシッと決まりすぎていない、どこかちぐはぐな取り合わせがほほえましい。そうよね、昨夜の残りものや冷蔵庫にあるもの、いただき物の野菜などを使い回さなきゃいけない家庭料理っていつもいつもアンバランスなものだもの。「そうそう、これがほんとの『おうちご飯』なのよね」といたく共感してしまう。そして、そういうありのままのちぐはぐさを妙に気取ったり隠したりせずに正直に記録しているそのブログに飾り気のない彼女の人柄が見える。


友人や身内にもおおおむね好評だった「ごはんブログ」だが、キヤノンが主催する写真教室などに通い、写真とまじめに向き合うことにより「ただの記録」としての料理写真に飽き足らなくなってきた。

ごはん日記は記録としての続けるために写真としての完成度は度外視していました。これからはそういう適当な写真ではなく、ほんとうに撮りたいものを選んで、きちんとしたものを残していきたいと思ったんです」


「ずいぶんまじめに写真に取り組んでいるんですね」
と感心して言うと、
「今の私には撮ることが必要なんです」
との答え。


待ち望んでいたのに生まれることがかなわなかった我が子。喪失のショックから手に取り始めたカメラだが、いまレンズを被写体に向けているとこんなことを思う。

「カメラを手にすることがなければ、この人たちと出会うことはなかった。きっとあの子が私とこの人たちを出会わせてくれたんだ」

今は、どこかにいるわが子と一緒に写真を撮っているように感じるという。そして、そう思うことによって、ゆっくりと自分の心が癒されていくのがわかるのだと。


彼女が撮った中で私がとても惹かれたのはこの写真。
9月の終わりのある午後。カップの中のラズベリー色のハーブティーの表面に秋の草が小さく映り込んでいる。あたたかいハーブティーの温もり、香り、そっと忍び寄る秋の気配がじんわりと伝わってくる。



「写真を撮ることによって癒されている」
と語る彼女が撮った写真で、癒される人もきっといることだろう。私のように。



※以上の文章は、最近知り合ったある女性をインタビューして書いたものです。掲載の許可をいただいております。