「ダンナさん幸せねえ」

手作りのパンだのお菓子だのをお裾分けするとよく言われるのが、
「これ、手作りなの? いいわねえ。ダンナさん幸せねえ」
という言葉。
100%社交辞令だとわかっていても、そういう風に言われるのはもちろんうれしい。うれしいんだけど、言われるたびに、ほんの少〜しひっかかるものを感じるのも事実。
「ダンナさん幸せねえ」には
「お料理上手な奥さんがいて、毎日おいしい食事が食べられて、ダンナさんはうれしいに違いない。幸せに違いない」
という意味がこもっている。
確かに、常にお料理上手な奥さんの手作り(ここポイント)の食事が用意されていて、楽しく食事が出来ることはラッキーでハッピーなこと。不味いものを食べてハッピーになる人はいない。


けど、料理があまり得意じゃない奥さんもいるし、仕事や育児に忙しくて食事はいつも外食かスーパーのお総菜、という奥さんもいる。そういう奥さんがいる家庭はハッピーでない、ということはないんだよね。そもそも「手作りの料理」→「奥さんが作る」→「ダンナさん喜ぶ」と直線的な連想がちょっと時代遅れかなという気がしないでもない。別にご飯なんて誰が作ったっていいじゃん。ダンナが作ったって、学校から帰ってきた子どもが作ったって。


家族でおいしい料理を囲めるのは確かに幸せなこと。でも、幸せにはいろんな形がある。「手作りでおいしい」から「幸せ」ではないと思うし、スーパーのお総菜でもコンビニ弁当ばかり食べていても幸せな家庭はたくさんあると思う。手作りのおいしい料理を出している奥さんがいる家庭でも仮面夫婦で家庭内別居、なんて場合もあるかもしれないわけだし。


私が毎日お料理してパンやらケーキやらを焼くのは、オットに「幸せになってもらいたい」からじゃなくて、単においしいものが好き、お料理するのが好きだからなんだよね。そもそもうちのオットは食べるものに興味がうすい人だから、私が作った料理を毎日食べていても「ありがたいなあ、幸せだなあ」ってそんなに意識していないと思う(たまに「もうちょっと感謝して食えよ!」と思わないでもないけど)。


「おいしい料理」は人を幸せにするけれど、「奥さん」が作った「おいしい料理」で家族への愛情や幸福の多寡をはかられるのは、ちょっと鬱陶しいかなという気がする。家庭の幸せはそれだけじゃないんジャマイカ、ということですね。食事はみんなが楽しければいいのよ。